横浜市鶴見区上の宮にあるギターとウクレレの教室です。

講師物語

講師物語

凄い先生達

音楽の授業で習ったバッハの時代には、宮廷音楽家として招かれることが一流の証でした。演奏の合間には、貴族へのレッスン、作曲などをして生計を立てていたのですが、楽器は一般市民には全く手の届かない領域でしたので、楽器が弾ける一般市民は殆どいなかったのではないでしょうか。

 

1800年代になりますと、音楽は一般市民に浸透し始めるので、音楽家は宮廷ではなく、街中で演奏します。国を跨いで街のホールなどで演奏を行うようになります。今で言うツアーです。馬車に乗って演奏旅行を重ねることで、偉人達の音楽は世間に広がり、一流の証となって名前を残して行くのであります。 

 

指導も貴族以外に街の人々へと浸透して行きますが、楽器は高額だったので一般市民には、まだまだ手の届かない物でした。一般に楽器が演奏出来たのは教会または、高額な音楽学校です。 ベートーベンやショパンなど、偉大な作曲家も一般市民でしたので、習いに来る貴族の娘さんに恋しては地位の違いで実らず、彼女らに捧げた曲だけが、今も褪せることなく残されて弾き継がれています。 
ちなみに偉大な作曲家の殆どは、親は宮廷音楽家が多いで、お母さんのお腹にいた時から聴いていた事になりますね。

 

このように、楽器の先生という人たちは、常に音楽に包まれた優雅なイメージありますが、実際には、音楽以外の苦労話が多く綴られています。そのあたりがまた面白いのですが。

 

貧乏で有名なシューベルト。 演奏家にも指導者にもならず、作曲に明け暮れ、現在では「歌曲の王」と呼ばれています。 亡くなった後に、曲が見直されて名前が広がりました。作る作品群がその時代に合わずに受け入れられず、何年も先に合ってくるのでしょうね。 

 

日本では

日本ではずっと遅く、1887年 (明治20年)に東京音楽学校として発足されます。
(今の東京芸術大学になります)

 

日本で最初の音楽大学 東京音楽学校

 

音楽の授業は西洋音楽の勉強が中心だったようで、楽器を手にする指導は第二次世界大戦が終わる1949年以降からと、大変な時期を乗り越えてからの始まりです。 

 

 

一般のレッスンは昭和に入った1930年以降から。現在のスズキメソッドがヴァイオリン指導を市民に広めて行きました。これが楽器レッスンの始まりです。 

 

1946年、長野県松本市に松本音楽院を開設し、専門機関と幼児教育機関として発足。今日に繋がっていくのであります。

 

 

 

そして、オルガンを作っていた日本楽器製造株式会社(現在のYAMAHA)が、1954年にこれらを導入し、ヴァイオリンやピアノなど(ピアノ製造販売台数世界1位です)、様々な楽器の製造、販売、修理と、指導者を育てあげて、音楽レッスンと言えば、「YAMAHA」と言える程、全国に浸透して行くのであります。

 

日本人が奏でる楽器の歴史は、ヨーロッパに比べると相当遅れましたが、世界コンクールでは度々優勝者が出ています。その背景は、演奏者のとてつもない才能、努力はもちろんですが、その才能を引き延ばした指導者の存在が、とても大きいと言えます。

 

 

 

初めてのレッスン

ここから、私の話になります。

 

東京にて
20歳の時に、行きつけの楽器屋さんで「ギター教えてみない?」と言われたことがきっかけで、アルバイト感覚で始めたことが最初です。その時の指導内容は、既存曲を弾けるようにするといったレッスンでした。 基礎は伝えられず、(内容、順番も分からなかったので)ひたすら私なりの解釈で伝えていきました。それでも中学生や高校生が来てくれたものです。

 

 

長野にて
25歳になってバンドからも離れ、やがて就職、28歳になると趣味でバンドも組み始め、バンドってやはり楽しいと思うようになった頃です。毎日0:00過ぎまでの残業を重ね、「ここまで仕事に頑張れたら、ギターも同じように頑張れば仕事になるんじゃないか?」なんて思うようになります。一生、同じ仕事をすることで後悔するのでは?そんな思いがありまして。
この時、まだ講師になろうとは気付いていませんでしたが、何かギターに関連した仕事をしたいなと、何となく思い始めた頃でした。

 

そうだ、講師になろう

仕事場で、「この仕事を辞めて、ギターに関した仕事が出来たらなぁ」と、先輩に話をしたら、「講師になって教えれば?」と、何気に行ったと思うであろう一言が「そうか、その手があった!」と、胸に刺さりました。

 

20歳の頃に教えたやり方では、プロではない。教え方も分からないので、教わろうと、町の楽器店に問い合わせしてみると、ピアノ、エレクトーン教室はあるけれど、ギター教室というものは無くて・・・ 「弾ける人はたくさんいるけど、楽譜を読める人がいないんだ」 と、ハッキリ言われ、「やっぱりチャンスじゃないか!」 内なる闘志を燃やしたのであります。

 

 

この言葉に火が点き、講師になる専門学科は無いものかと真剣に探し始めましたが、大学はクラシックギター科、専門学校は演奏者になることしか教えていない状況でした。 
いつも行っていた島村楽器松本店の店員さんに、「講師になりたいけれど、教室ないか?」と、聞くと、「東京へ行けば講師になりたいと言えば、それなりのレッスンをしてくれる」 と、教えてくれましたが、 東京へは通えないなぁ。 こんな、うやむやな毎日を送っていました。

 

エレキギターの基礎って何するんだろう?音楽理論も分からない・・・

 

 

信州にいたのでは、何も進まない、やはり東京か。 東京へ行くなら街の教室ではなく、しっかりした学校へ行こうと思い、資料を集め始めます。
問い合わせた結果、「本人次第だけれど、講師にも演奏者にもなれるコースがある」 と、連絡が来ます。それがWOODのプロ養成課でした。もう、東京へ行くしかありません。覚悟は決まりました。

 

学校生活始まる

日本中から集まってきたプロ養成科の生徒たち。
みんな希望を胸に、ライバル意識全開で視線バチバチ・・・と、思っていたら、意外とみんなほっこりしていて、冗談言ったり助け合ったり、和気あいあいとは行きませんが、困ったことは助けてくれる間柄です。

 

 

楽しかったのは2か月程。 課題が自分の出来る範囲を越えてくると、それはそれは練習時間が無くなり、先生の対応も厳しくなって行きます。特に週2日の個人レッスンは逃げることも出来ず、毎回行く気が失せていました。

 

課題を頂き、次回までにこなして行く。 ここで、才能ある人はどんどん進みますが、才能が特にない私は、このレッスン時間が億劫になっていきます。学生に戻ったけれど、生活費を稼ぐために仕事もしないといけません。残った時間で家で練習してるけれど、変わったように聞こえないらしく、すぐに顔色が変わります。

 

レッスンの風景

 

レッスンの一コマ

先生 「なんだ、練習していないのか!?」 
私 「少しはやっています」
先生 「少しってどれくらい?」
私 「毎日1時間ほど」
先生 「前回と変わっていない!」
私 「・・・」 そこで黙々と弾いていると
先生 「ここは練習するところではないぞ!!」
私 (帰れって意味か?) 黙々と弾いてます。

 

先生立ち上がり、出て行ってしまいました。

 

 

 

レッスンの1コマ A

先生 「ダメだダメだ。 全然ダメ。」
私 「ふぅ・・・」 タメ息
先生 「なぁ、プロになりたいんだろう? もっと、やる気を見せてくれ!!」

 

パシャーン!
楽譜放り投げた音です。

 

 

 

 

レッスン最終日
先生 「今日で最後だな。」
私 「ありがとうございました」 (かなり安堵の表情をご想像ください)

 

映画やドラマだと、涙が出るような旅立ちの感動シーンですよ。 それなのに、先生は・・・

 

先生 「家ではこれをやりなさい」
私 「え・・・あの、今日で終わりなのですが」

 

最後のレッスンなのに課題を出してきた先生。

 

先生 「出来たら弾きに来なさい」
私 「え?ええ?それ良いのですか? やってみます」
先生 「うむ、また来いよ」

 

これが最後です。映画だと絶対に続きがありそうなラストです。
続きは、まだ描かれていません。

 

この先生のおかげで、専門的な技術が身に付いた事は確かです。いつか、お礼を言いたいのですが。。。

 

 

ある時、もの凄く練習して行った結果、普通の表情で接してくれました。 私も安心したのですが、この時、「ここまで練習しないとダメか」 と、つくづく思ったのですが、あの実感はいまだに忘れず身に沁みついています。 音楽でお金を頂くとは、そういうことなんだなと。

 

学校は経営は教えてくれません。
プロとしての技術や知識、心構えを身に付ける場所です。 卒業したから講師になれるとは限りません。講師になる為に必要な最低限の技術を教わっただけです。最初に学校側から連絡を頂いた時に「講師にもなれる」とは、スタートラインに立てるということでありました。 

 

教室OPENに向けて

今までの音楽の先生像は、演奏会の合間に指導をして、指導料を頂き、生活費に充てる。今もこのイメージが強いですが、私は、「指導だけで良いのでは?」と考えたのであります。 ただし、名前が全く広まっていないので、教室を宣伝することが出来ない、ならばどうやって広めようか。まずは、ここから入りました。

 

ひどいもので、ギター教室と言っても教室は無い状態です。どう教えるのかと言うと、当時誰もやっていなかったギターの家庭教師をしようと思い立ったのです。宣伝が一番肝心なのは分かっているので、宣伝方法を考えました。新聞広告手っ取り早いのですが、残念ながら予算がありません。 まず、楽器店へ行き手作りで作ったチラシを貼らせてもらいました。 そして、親が見てくれるかもしれないという期待を胸に、スーパーへ行ってチラシを貼らせてもらったり、近所の食堂や美容院などなどお願いしたものです。

 

Ogura Guitar School 初のHP 

 

ギター教室 Episode です。 ギターの家庭教師をします。 
レッスンは固定では無く、月3、翌月は月2でもご都合に合わせて。

 

こんな内容でスタートしました。

 

どこにでも行けるよう、原付バイクに小さなアンプを足元に置き、ギターを背負ってどこへでも。

 

 

 


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